格差社会と経済成長

格差問題の論点

よく日本社会の格差が問題だ、といわれることがあります。この問題については様々な論者が各人各様の自説を展開しているようです。格差という問題が重要であることに誰しも異論はないでしょう。私自身も日本の格差について感心があります。そこで、この記事では格差の問題を取り扱ってみたいと思います。

格差の問題に関する論点はいろいろなものが考えられます。まず、格差そのものが何故問題なのかという点が問われねばならないでしょう。この点を考えていくと、格差そのものよりも格差の拡大の方がはるかに重要な問題ではないかとも思えてきます。さらに、日本は本当に格差社会なのだろうか、日本社会において本当に格差は拡大しているのか、という論点も重要です。

格差問題の論点は様々でしょうが、私としてはこの記事で格差と経済成長の関係を考えてみたいと思います。つまり、経済成長という課題に対して格差がどのような影響を与えるのかという疑問を検討してみたいと考えています。今の日本は今後の経済成長をどうやって実現するかという問題に直面しています。ならば、格差と経済成長の関係を考えることは十分に意味のあることだと思います。

格差社会と需要

ここまでの書き方では、問題意識が先にあって考えを進めたように見えますが実際は逆です。むしろ、次のような閃きがふと私の頭に浮かんだのでこの問題を考え始めたというのが本当のところです。その閃きというのは…

「格差があまりにも広がりすぎると実は社会全体の需要が減ってしまうのではないか?それは経済成長に悪影響ではないのか!?」

つまり、こういうことです。話を単純にするため、ここでは賃金格差だけを問題にすることにしましょう。そして、その社会ではAさんとBさんの二人しか存在しないと仮定します。Aさんはとても商売上手で年収が10単位あります。一方、Bさんはあまり稼ぎが良くなく4単位の年収しかありません。この年収に関する格差は各人が消費行動をとるときの予算制約として機能します。AさんもBさんも同じだけの欲望を持っていて、それぞれ7単位の消費をしたいと考えているとします。この時、Aさんはしっかり7単位の消費ができます(残りの3単位の年収は貯蓄に回ることでしょう)。しかし、Bさんは予算制約があるために4単位の消費しかできません。結局、社会全体で見れば11単位の消費=需要しか存在しないことになります。

では設定を少し変えて上記と同様な社会でAさんもBさんも7単位の年収があるとします。これは先ほどの例と比べてAさんとBさんの年収総額は同じです。しかし、全く格差が存在しない社会であると言えます。この時、AさんもBさんも7単位の消費が可能です。そして、社会全体では合計14単位の需要があることになります。

おや?格差がある社会の方が全体の需要が減ってしまっていますね。

社会格差がある場合、社会全体で言えば本来持っているはずのポテンシャルな需要が顕現できずに目減りしてしまう。これでは、格差はけしからん!格差は廃絶しなければ駄目だ!となってしまいそうです。また、日本の高度経済成長の裏側には一億総中流と言われるような格差の小さい社会がありました。ならば、尚のこと経済成長のためには格差は絶対悪だ!となってしまいそうです。

ですが、話はそうそう簡単ではないようなのです…

格差と資本形成

格差が無い社会の場合、消費は十分に行われるのですが、その一方で貯蓄が少なくなってしまいます。先ほどの格差が無い社会の例では社会的な貯蓄はゼロ。つまり、明日の糧を得るための資本形成が行われないのです。言いかえれば、その日暮らしが延々と続いてしまうわけですね。これでは経済成長のしようがありません。

この罠にはまってしまったのが旧共産圏でしょう。例えば、中国などでは極端なまでに平等な社会を理想としてしまった結果、とんでもなく貧乏になってしまい、そこから一向に抜け出せなくなってしまいました。平等を旨としたかつての中国社会では経済成長など夢のまた夢だったわけです。そして、この罠から抜け出すことを考えたのが鄧小平です。鄧小平は先富論を打ち出して経済格差を認めました。そうするとどうでしょう。今や中国は世界で2番目に大きいGDPを持つ国にまで登り詰めたのです。

また、格差が存在しないということは、頑張っても意味がないということでもあります。頑張っても頑張らなくても結果は同じ、それならば誰が努力などするのでしょうか。人々に何らかのインセンティブ(誘因)を与えるということのパワーを舐めてはいけません。これは個人的な主観ですが、人間はどこまで行っても欲望の虜囚です。人間が欲望を持つのは自然現象と同じだと私は思います。自然現象に逆らうこと、それは天に唾する行為であり、旧共産圏はそのしっぺ返しを食らったのだと私は考えています。

少々回りくどくなりましたが、ここで言いたいことはこういうことです。資本形成とインセンティブという観点から見た場合、格差こそが経済成長の鍵を握る、と。

クズネッツの逆U字仮説

格差と経済成長の問題を考えるとき、どうやらクズネッツの逆 U 字仮説を避けて通るわけにはいかないようです。私もこの問題を考え始めてからクズネッツのことを初めて知ったのですが、クズネッツは経済成長のパターンとして、その初期に社会的格差が起き、その後の経済の成長に伴って格差が終息していくということをあくまでも「統計的に」発見したそうです。つまり、データを検証した限りでは経済成長はこのような軌跡を描いている、と。

しかし、何故そうなるのかの理由づけがうまくできていない、すなわち理論的な根拠が薄弱だという見方もあるらしいです。統計データは簡単に人を騙せますから用心するに越したことはないです。それが、クズネッツの言説が「仮説」と言われる所以でもあるのでしょう。

さらに、最近のデータを使って検証をしてみると、おやおや、逆 U 字型で経済成長が終息したはずの先進諸国では、またもや経済格差が広がっているという現象が観察されているようです。クズネッツの言うように逆 U 字だけで経済成長が完結できるものかどうかも怪しいということらしいです。

クズネッツの説を参照してみたところで、格差と経済成長の関係について、残念ながら明確なことは何も言えなさそうです。

真相は闇の中だが…

ここまでの話をまとめると、結局、格差と経済成長の関係は極めて曖昧なものだと考えざるを得ません。真相は闇の中、ということです。

しかし、格差と経済成長の関係をそのまま放置するのもひどい話です。そこで、あくまでも私見ですが私の考えを述べておきたいと思います。

まず、そもそも格差と経済成長に関係があるかと言われれば、たぶん「関係がある」と私は思います。ただ、おそらく格差が経済成長に与える影響は別の変数、言いかえれば社会的な状態が関係しているはずです。つまり、その社会がおかれた状況に照らして格差を是とするか否とするかを、その都度考えていかざるを得ないということです。しかも、理論的な背景が実に曖昧な中、その選択を「決断」しないと仕方がありません。

では、今の社会状況、特に現在の日本が置かれた状況とはどのようなものか、そして、その状況のもとで格差にどのように向き合っていくべきかという話になります。あくまでもラフな意見ですが、日本は相対的に十分な社会資本が整備されているため、格差を無くす方向に軸足を置くことが重要だと思います。

ただ、ここで問題になるのは、本当に日本の社会的格差が拡大しているのか、という点です。私は近年の格差拡大という言説に対してやや懐疑的です。さらに、そもそも日本の格差はそれほど大きくありません。これらの点については改めて記事を書きたいと思いますが、現在の格差問題はやや誇張されすぎて扱われていると私は思っています。トータルで言えば、日本の格差はまだまだ許容範囲であり、これ以上、格差が拡大しないように気を配るという程度で良いのではないかと私は考えています。

とはいえ、今後、日本の格差がなし崩し的に拡大する方向に進まないとも限りません。もし、そのような状況が発生すれば大きな問題になると思っています。その萌芽として私が危惧しているのは、製造業の衰退とサービス業(金融業)への日本社会のシフトです。ものすごく簡単に言えば、日本がアメリカの辿ったような道を歩んでしまうのではないかという危惧です。この点についてはもう少し考えをまとめてから記事を書いていきたいと思います。