書評 / 中野剛志「国力とは何か」

内を向くという選択肢

以前、ちらりと「日本は西を向くか東を向くか、2 つの選択肢しか無い」といったことを書きました。つまり、日本はアジアに重心を置くかアメリカに力点を置くかしかない。政治家で言えば、小泉さんは極端に東を向いた人です。その反動なのかどうかは良く分かりませんが、鳩山さんは全く真逆の西を向いた人ですね。日本に住む人たちは全く正反対の方向にいきなり舵を切られたわけで、てんてこ舞いになってしまいました。それは世界の人も同じですよ。オバマさんは鳩山さんの仕打ち(普天間とか)に怒っちゃいましたし…。

それから、北を向くという選択肢も無きにしもあらずと補足的に言いました。ロシアです。最近では前原さんがロシアとのパイプラインを宗谷海峡に通す話に前向きのようです。これは悪くない戦略だと私は思います。いきなり北に向けて舵を切ることはさすがに無理だと思いますが色目を使う程度のことはしておいた方が良いと思います。選択肢を多めに持っておいて損することはありません。それは交渉の基本です。

さて、以前は、東向く、西向く、北向く、の3つに言及したわけですが、本当はもう一つだけ選択肢があります。

それは「内を向く」という選択肢です。

日本の中に向かう論客 中野剛志

中野剛志さんは、「内を向く」つまり「日本の中に向かう」ことに重点を置く論客です。そのエッセンスは、まさにこの本の中に凝縮されています。この本の中に頻繁に現れる「ナショナル」というキーワードがその全てを物語っています。

ナショナリズムは国民が起点になると中野剛志さんは言います。同じように物事を感じ、同じような行動様式を取る人々の集まりが「ネイション」即ち国民です。我々は同じであるという意識がナショナリズムの源泉となります。

しかしながら、元来、人々は同じものにはなりえないものでしょう。同じではないものを同じであると”錯覚”させるには長い時間が必要です。長期間にわたって共同生活を営むことで人々の間に共同体意識が生まれます。所謂、同じ釜の飯を食う、というやつです。この歴史的に形成された共同体の観念=「同じである」という観念がナショナリズムを支えています。

結局、国力とは何なのでしょうか。中野剛志さんのお考えでにできるだけ沿って表現するとすれば、共同体が自律的に共同体そのものを維持発展させていく内的な力、とでもなるでしょうか。あなたも私も日本人、ならばお互い助け合って、より良い暮らしを実現させていきましょう、と。

一時期、中野剛志さんは東日本大震災に対する政府の対応の遅さを手厳しく批判していました。中野剛志さんは同じ日本人である東北の人を、他の日本人が助けようとしない状況に憤りを感じておられたのでしょう。この憤りと本書の内容は整合的です。「ショボい日本の国力」に怒りを爆発させておられたのですから。

腐り果てても我が祖国

中野剛志さんの言うこと敷衍すれば、今現在、日本は「国力」が弱まっていると言えるでしょう。現下、人々の紐帯が失われつつあります。実際はもっとひどいのかもしれません。もはや人々の紐帯という表現は日本においては過去形なのかもしれません。紐帯が失われた後に残るものは無規範(アノミー)です。その兆候は日本の至る所で見られます。

さて、このような状況の中、個々人は一体どのように振る舞うべきでしょうか。簡単です。日本を捨てたらいいのです。日本という不治の病に冒された土地を捨てて別天地を求めればよいのです。これは極めて合理的な解です。倫理の問題を度外視すれば、合理的に行動する個人を非難することはできません。無理なら逃げる。ある意味、当たり前すぎるほど当たり前の答えではないですか。

しかしながら、人間はそれほど合理的な生き物ではありません。歴史を見れば、このような非合理的な振る舞いをした人間の例は幾らでも見つかります。人間は合理的に振る舞うはずだと考えてみても、歴史的な反証は幾らでも見つかります。そして、このような非合理的な行動が人間の歴史を形作ってきたとも言えます。

「腐り果てても我が祖国」 この心情はナショナリズムの持つ本質的な心情です。駄目と知りつつ、敢えて踏み止まる。中野剛志さんの行動の裏に私はこのメンタリティを垣間見ます。そして、日本の国力は、この一見不合理な行動を取る人がどれだけいるかにかかっているのです。

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