ノマドのネタ本としてのドゥルーズと浅田彰

一応 “nomad” にしていますが…

一応、このブログの名前には “ノマド” を入れています。ドメイン名にも “ノマド” って入っています。じゃぁ、お前はノマド(ワーカー)なのか?というとそういうわけではありません。また、ノマド(ライフ)に憧れを感じるのか?と問われると、別にそんなこともない。私は自分で自分の事をノマドだと規定したことはありません。

もともと、このブログの名前を付ける時にイメージしたのは「素浪人」です。何処かの殿様にお仕えするわけでもなく、刀一本脇に差して、諸国を自由に漫遊する侍。本当に仕えるべき主君を探して旅を続ける浪人。そんなイメージですね。少し前に大河ドラマで山本勘助が取り上げられたことがあります。戦国時代に武田信玄に仕えた謎の参謀です。私は山本勘助が結構好きで、あんな感じをイメージしました。

「素浪人」という線で名前を考えると samurai というキーワードは外せない。外国人って物凄く samurai が好きですよね。しかも、外国人たちの脳内で独自進化した samurai。もはや「侍」の原型を止めないまでに変質した「samurai」です。それっていいなと思ったんです。その samurai に放浪するというイメージを付けくわえたかったのです。そうすると、ふと nomad というキーワードが出てきました。そうして、nomadic samurai という名前に決めたのです。

実はこの名前に決めたのは 2 年ほど前の話です。以前、同じ名前でブログを書き始めたのですが 1 日で止めてしまいました。続かなかったのですね。最近でこそ、頑張ってブログを更新していますが、その時は本当に三日坊主もいいところでした。その反省もあって、このブログを作る時は、デザインに凝ったり、名前を考えたりするのに時間をかけるのをやめようと思ったのです。それよりも記事を書くことに注力しようと思った。そこで、このブログの名前は、昔使っていた過去の遺物を引っ張り出してきたのです。

そういうわけで、私は最近のノマドというキーワードに関する情報を殆ど持ち合わせていません。ノマドについての本も読んだことがありません。だけど、今、ノマドと言っている人たちの元ネタはここじゃないかなという本なら読んだことがあります。

ドゥルーズと浅田彰

1980 年代にポストモダンという潮流が生まれました。今から考えると何だったんだろうと思えるようなムーブメントですが、その当時はポストモダンこそが「知の最前線」だと持ち上げられていました。ベタな言い方をすると、ポストモダンというキーワードを使っていれば「恰好よく」見えた時代だったのです。

主にフランス系の知識人がポストモダンの代表格でした。フーコー、デリダ、リオタールあたりが有名どころでしょう。ボードリヤールあたりも時代的にはオーバーラップするはずです。そんなフランス系知識人の中からドゥルーズというポストモダンを代表する知識人が出てきました。ガタリという精神分析を専門とする学者と共同戦線を組んで、ドゥルーズは大量に本を書きました。そんな本が「アンチ・オイディプス」であり「ミル・プラトー」です。

今、私の手元に本が無いのでウロ覚えで書きますが、確か何処かに『「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」という風に考える』みたいな話が書いてあったように思います。ちなみに、前編の主題がこのフレーズに集約されるというわけではありませんのでご注意を。何のこっちゃ?という感じでしょうからもう少し噛み砕いてお話します。

ドゥルーズという人は「主体」ということが嫌いでした。この点から考えていくと話が分かりやすくなると思います。常に同じであり続けるという主体なんて幻想だよとドゥルーズは言いたかったのです。例えば「私は資本家だ」と言えば「私は労働者ではない」ということになる。ここでは「資本家か労働者か」という選択の中からどちらか一方に固定化を図ろうとする誰かさんの魂胆が垣間見える。花屋は花屋です。だって、花屋はトレーダーではないから。大工は会計士ではありません。だって、大工は大工だから。政治家が汚物清掃人と同じであるわけがない…。これが「あれかこれか」の論理です。

でも、それって本当ですか?とドゥルーズは言いたいのですね。ちょっとだけ花屋で、ちょっとだけトレーダーで、ちょっとだけ大工、そうかと思えば会計士でもあり、時とすれば政治家で汚物清掃人。人間の主体性なんて本当は嘘で、実際はこんな感じなんじゃないですかね?とドゥルーズは言いたい。こういう図式が「あれもこれも」の論理です。

それって精神分裂病じゃないの?と思われるかもしれません。お隣に住んでいる花屋さんが「俺は大阪市長の橋下徹だ」と言い出したらギョッとしますよね。まさにその通り、これは精神分裂的です。ですが、精神分裂的であることの何が問題なの?というお話です。

人間なんて常に同じではない。少しずつ少しずつ別の物にすり変わっていて、常に同じ存在であり続けるけるなんてありえない。人間なんて常に「差異」の中にあるんだよ、と。場所にしたって同じです。定住なんてありえない。今日はマンションに暮らして、明日は柳の下。そうかと思えば、明後日はホテルの中に住んでいる…。これって結局ノマドですよね。

そんなドゥルーズを引っ提げて日本で一世を風靡したのが浅田彰です。浅田彰の主著と言えば「構造と力」でしょうか。今でもクラインの壺が表紙に書かれていますね。クラインの壺というのは不思議な構造で、壺の中身に入って行けばいつの間にか壺の外側に出てしまう、そういう構造です。壺の底には知の蘊奥が潜んでいるはずで、壺の底に向かって一生懸命にしかめっ面をしながら知的探求を進めていく知識人。だけど、気がつけば、壺の外側に出てしまうわけです。では、あれほど「宝」と思って追い求めた知の蘊奥はどこにあるのでしょうか?そんなもの、ありません。もっと、精神分裂的(スキゾフレニック)でいいんじゃないですか?と。もっと軽いノリで知と向き合えばいいんじゃないですか?と。

浅田彰と言えば、私は「逃走論」の方が好きですね。確か「逃げろや逃げろ!」というフレーズで始まっていたように思います。これも手元に本が無いので確認できませんが…。何で毎日毎日同じようなツマラナイ事をするの?そんなに難しい顔をしながら同じ所に止まってどうするの?逃げちゃえばいいじゃない?逃げろや逃げろの「逃走論」。これってノマド以外の何物でもないですよね。

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