政治と経済の対立項

政治と経済

私は政治にあまり興味を持ったことがありません。政治的な解決というものが今一つ信用できないのです。これは常々思うことですが、政治に興味を持つ人というのは喧嘩ばかりしているように私には思えます。しかも、実にくだらないことで喧嘩をする。口喧嘩程度ならば可愛いものですが、エスカレートして本気で実力行使をする場合だってあります。私は権力闘争なるものにどうしても馴染めません。

そのかわり、私は経済を選択しました。ドロドロした政治的闘争よりも、ビジネスや商売に携わった方がマシだと思ったのです。ビジネスというのは、ある意味さっぱりしています。単に利益が出るか出ないかの世界です。私はこのサバサバした感じの方が政治よりも数段マシだと思っています。

ですが、政治と経済は一体何について対立しているのかが私にはさっぱり分かっていませんでした。一体、両者は何が違うのだろう?というのは、長い間、私の中で大きな謎でした。ですが、両者は「人間が社会を統治できるかどうか」という点で対立しているのではないかと、ある時ふと気付きました。この観点に立てば、全てがすっきり説明できる気がしたのです。もちろん、これは私の妄想なのかもしれませんが、もう少し詳しく説明してみましょう。

人間は社会を統治できるか?

「人間は社会を統治できる」という信念はまさに政治的なものです。この立場は人間の能力に対する信頼と言い換えてもよいでしょう。人間が努力すれば全ての問題を解決できると思うからこそ、「政治システム」は議会を作り、政府を作り、法制度を整備します。人間の知恵を最大限に活用して、人間社会を統治しようとします。

政治的解決に軸足を置く場合、「大きな政府」を指向するのは当然の成り行きです。政府こそが問題解決の主役なのですから、政府に大きな力を与えるべきだというわけです。「大きな政府」の行きつく先は計画経済でしょう。人間は優秀であり全てを見通す力があるという前提に立つからこそ「計画」というアイデアが浮かんでくるのです。

また、官僚という存在が規制を好む理由もうまく説明できます。人間が努力すれば社会の問題は解決できるのです。だから、人間が「正しい」制度を設計するべきなのです。では制度の設計者は誰でしょう?それはまさに官僚です。一握りの優秀な人間こそが「正しい」制度を設計するべきなのです。ここでは哲人政治が一番望ましいことになります。

北京オリンピックの際に、中国がミサイルで雨雲を制御してオリンピック開会当日の天気を晴れにしようとしたことを覚えているでしょうか。私は、中国がこのような行為をしようとしたことに「政治的解決」の本質を見ます。人間の万能性は自然すらも支配下におけるという信念が透けて見えるからです。

経済の本質は自由放任

一方、経済システムの核心は自由放任、すなわちレッセフェールにあります。何故、自由放任が最も望ましいのでしょうか?その理由は「人間は完全に社会を統治できるわけではない」という信念が根底にあるからです。

経済システムは「小さな政府」を要求します。なぜなら、不完全性のカタマリである人間がいくら寄り集まっても非効率しか生まないと考えられているからです。この社会的解決策の延長線上には政府の存在すら許さないという立場があります。つまり、無政府主義=アナーキズムです。極端なリバタリアニズムがアナーキズムと親和性が高いのは当然のことです。

経済システムがグローバル化を指向するのも当然です。そもそも、経済システムは政治システムによる統治に重きを置きません。つまり、政治的な境界線=国境には意味を見出しません。恐らく、経済システムの側から見れば国境を超えているという意識すらありません。何故なら、それが当たり前のことだからです。むしろ、経済システムから見れば、政治システムによる国境とは「矮小なるローカル化」でしかありません。

陰謀論を説く人は「ユダヤの国際金融資本」とかいったキーワードが大好きですね。その正体は闇に包まれ、実に不気味な存在として描かれることが多いです。「ユダヤの国際金融資本」なるもので描写される図式というのは、ある意味で経済システムの本質を突いています。その正体が曖昧模糊とした謎の存在として語られるのは、統治の中心点が根本的に「無い」からです。日の目に晒すべき正体が「無い」のです。政治システムの統治モデルは、何処かに中心点があり、そこから放射状に影響力が広がっていくというものでしょう。ですが、経済システムにおいては「無」政府なのです。そこには統治の中心点は存在しません。

経済システムの統治モデルを突き詰めていくと、どうしても超越論的な存在を措定せざるをえなくなります。平たく言えば、神様ということを考えざるをえなくなる。経済システムの前提では人間は統治能力を持っていません。それならば、何が人間社会の調和原理足り得るのかという疑問がどうしても出てきます。そうすると、神様なるものを発明したくなるのが人情というものです。マックス・ウェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で、資本主義的な経済活動の背後にある宗教的なエートスの存在に光を当てました。経済システムの原理の裏側に宗教的な原理がコインの裏表のように刷り込まれているということは、よくよく心しておくべきことだと思います。