エリートの問題

エリートとは何か

目の前にボタンがあります。このボタンを押せば、高い確率で多くの人が幸せになります。ただし、確率は低いものの、失敗すれば多くの人を塗炭の苦しみに叩き落とすことになります。そして、ボタンを押した人は責任を問われることになります。

このボタンを押したときの成功率がどの程度であれば、あなたはボタンを押すことができるでしょうか?80 %でしょうか? それとも、90 % でしょうか?もしかしたら、99.99 % でしょうか?

ただし、あなたにはこのボタンを押さないという選択肢があります。このボタンを押さなければ何も変化は起きません。今まで通りの日常が繰り返されることになります。平時であれば、ボタンを押さないことに大きな問題はありません。ボタンを押さない限り平和な時代が続くのですから、押さないことが一番良い選択だということは理解できます。

しかし、非常事態の時にボタンを押さないことはどうでしょうか。ボタンを押さない限り状況は日々悪化していきます。そんな中、ボタンを押すことにも、敢えて押さないことにも大きな責任が伴います。そんな時代であれば、いずれにせよ、ボタンを押す権限を与えられた人には大きな責任が伴います。

ノブレス・オブリージュ。エリートというのは、このボタンを押す/押さないに関する責任と権限を与えられた存在のことです。

逆説的ですが、エリートというのは人々の中で一番大きな損失を自らに引き受ける人たちのことです。多数の人々の大小様々な損失を一身に引き受けようとする人のことです。実はエリートというのは社会的に見て最も損な役回りなのです。そのかわりに、エリートが蒙る損失はさまざまな形で補償されます。高い名声、人々の尊敬の念、多額の財産、そういったもので補償されるのです。

エリートへの称賛や富は自己犠牲の上に成り立つものです。

エリート不在の日本

結局、日本の問題というのは、行きつく先はエリートの問題ではないかと思います。日本には本当の意味でのエリートがいないことが大きな問題ではないかと思うのです。

エリートというのは別に有能な人材という意味ではありません。有能かどうかなんてどうだっていいのです。そもそも、人間の能力差なんて、たかが知れています。本当は、個々人の能力なんかに誰も対価の支払いなんかしていないのです。実は個人の有能さそのもには何の価値もありません。

ただ、有能さはエリートにとって重要な資質です。無能な人が自らを犠牲にして万人に奉仕しますと言ったところで、奉仕される側も困るだけだからです。奉仕されても何もいいことがないわけですから。そうではなくて、有能な人が自らの有能さを犠牲にすることに人々は高い価値を見出すのです。その姿には神々しさすら漂います。

今の日本に、自らの有能さを敢えて犠牲にしている人はいるのでしょうか?自らの身にありとあらゆる災厄が降りかかる覚悟ができている人はいるのでしょうか?私にはボタンを目の前にして責任放棄している「なんちゃってエリートさん」しか見出せません。

エリートならば、ぜひ全責任を一身に引き受ける覚悟でボタンを押してください。同様に、世の全ての災厄が我が身に降りかかる覚悟のもとで、あえてボタンを押さないでください。そのどちらでもない、つまり、そもそも責任を引き受ける覚悟がないのであれば、定義上、その人はエリートなんかではありません。そんな「なんちゃってエリートさん」なんていらないのです。

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