お茶漬けナショナリズム再考

ナショナリズムを語るグローバリスト

最近の自分自身の書いたものを読み返してみると、私は実に尻の座りが悪くなります。結構な頻度で「日本」というキーワードを書いているからです。「日本」の話を一生懸命していることに、自分自身でも不思議な感覚を覚えるのです。

以前から私を知る人ならば、私が「日本」というキーワードを連呼している事に吃驚するはずです。私は今まで真逆の事を考えてきました。基本的に、私は本質的に市場原理主義者ですしグローバリストです。そうでなければ MBA なんて持っているわけがありません。私は市場を信頼して国家をあまり信用しません。ですから、様々なものがグローバル化することに抵抗はありません。むしろ望ましいとすら思っています。

そんなグローバリストがナショナリズムめいたことを語っているわけです。人によっては「何デタラメを言っているんだ!」と糾弾するかもしれません。

三島由紀夫の「お茶漬けナショナリズム」

ですが、そのメンタリティというのは、それほど異様なものではないのかもしれません。

三島由紀夫の本の中に「若きサムライのために」という本があります。今でも文春文庫に入っています。その中で「お茶漬けナショナリズム」の話があります。

日本を貶す一方で外国の素晴らしさを喧伝しておきながら、久しぶりに日本に帰ってきたときに「やっぱりお茶漬けがいいよねー」と言ってしまうようなメンタリティの持ち主を、三島由紀夫は「お茶漬けナショナリズム」と呼んで徹底的に馬鹿にしました。そのような行為は、三島由紀夫に言わせれば “田舎もん” の行動様式に他ならないのです。最後に三島由紀夫はこんなことを言います。

私が言いたいことは、口に日本文化や日本的伝統を軽蔑しながら、お茶漬けの味とは縁の切れない、そういう中途半端な日本人はもう沢山だということであり、日本の未来の若者にのぞむことはハンバーガーをパクつきながら、日本のユニークな精神的価値を、おのれの誇りとしてくれることである。

ハンバーガーという所が当時の世相を表していると思いますが… 三島由紀夫の言わんとすることは何となく分かります。

今の私のメンタリティは、三島由紀夫のメンタリティに近いものがあります。それは、日本というアイデンティティを拠り所にしながら、それでも世界に目を向けるというスタンスです。

exile(流浪の民)でいいのか?

お茶漬けナショナリズム程度であれば、まだ救いがあるかもしれません。日本はグローバル化するべきであると言う人の中には、「日本が衰退するから」グローバル化すべきだという人がいます。

もはや何の価値もない日本。経済的に明るい先行きが見込めない日本。馬鹿な官僚、無能な政治家、下劣な経済人… そんな人間しかいない日本。硬直化した組織の中で何も変えることができない日本。日本は最低の国だ。「だからこそ」グローバル化するべきだ、というわけです。

しかし、それは単なる exile (流浪民) なのではないかと私は思います。そうやって海外に出て行っても、所詮は流浪の民にしかならないでしょう。そこには故郷喪失者の悲哀しかないような気がするのです。そうやって、何のアンカーもないままに海外に出て行った人や組織というのは、一体ナニモノなのでしょうかね。

「日本は駄目だ、だからグローバル」ではなく「日本は凄くて、なおかつグローバル」という風になればいいなと私は思います。そのためにも、まずは日本人自身が「日本的なもの」を馬鹿にすることを止めるところから始めるのがいいのではないかと思います。あらゆる「日本的なもの」に呪詛の言葉を投げつけて、海外に出ていくというのは単なる逃げなのではないでしょうか。

確かに日本は駄目なところが一杯あります。そうであればこそ、グローバル化する前にやるべきことがあるのではないでしょうか。